保護室入院の話
2年か3年前に保護室に強制入院させられた時、目が覚めたら全身が拘束されていた。特に点滴を外したり暴れたりした訳でもないのに拘束されたのは理不尽で仕方なかった。
死にたくてODして救急搬送されて、目が覚めたら閉鎖病棟の保護室のベッドだった。
死にたくて死ねなかった人間を拘束する理由がわからない。
暴れたり点滴を引きちぎったりするような人ならわかる。でも私はただ生気を失って鬱でしんどくて、それなのに拘束なんてされたらもっと死にたくなるとか考えないのかな。
人権がない、と思った。
前身拘束、オムツ、カテーテル、ドアもない丸出しのトイレで看護婦に見られながら排泄する。
本当に屈辱的だった。
暴れたりしないので外してください、という話は何度かしたが、退院の日まで外されることは無かった。
これ以上精神的にダメージを与えて何がしたいんだ。そんな憤りでいっぱいだった。
1週間ほど入院したが、生気がみるみるなくなっていった。テレビもなければスマホも使えない、鬱でしんどい人間にこんな仕打ちをしなくてもいいのではないかと思う。
世の中には全身拘束されてそれがトラウマになった人も大勢いるという。当たり前だ。人間以下の扱いを受けるのだから。
医者も1度味わって欲しい。誰にも声が届かない狭い密室で排泄すら自分でできない、ただひたすら天井を眺めてどういう気分になるのか。
あんなに人権がないと思ったのは初めてだった。人として扱われていなかった。私の心の問題を治すために治療してるはずなのに、更に心が苦しくなった。どん底に落ちている時にそんな状態にされるのはとても厳しい。
ただでさえ自分の生きている価値がわからないというのに、その価値さえ潰されてしまったように思う。
二度と保護室には入院したくない。
このブログを読んでくれてるみんな、安易に自殺未遂しないようにね。人間の扱いをされない入院生活が待っている。
私は今でも最後の最後まで拘束を外さなかったその時の病院の先生を恨んでいます。
未来の約束について
まったくブログの趣旨に関係ない話ですが。
最近同級生がぽんぽん結婚してく。高校時代から付き合ってた彼氏とか、同じ部活だった人同士とか、婚約しました、〇月に結婚します。という。
18とか19歳の頃は周りが結婚するって聞いても早いな〜くらいにしか思わなかった。
でも今はそんなふうに思えない。
羨ましいな。
ただそれだけを思う。
祝福しないわけではないけど羨ましくて妬ましくて祝福できるような心境じゃないんだ。ごめんね新郎新婦の皆様。
昔は女の子と付き合ってたし結婚なんて意識しなかった。別に結婚出来ないなら一生一緒にいようねって約束したらいいって思ってた。
でも今は、そうじゃない。そんな適当でいいわけない。
将来がわからない。私はどうなるんだ。そういう不安がある。みんな結婚していって、私はひとりで、なんというか劣等感というか、わたしはなんで…みたいな落ち込みがある。なんでだろう。私の何がだめなんだ?
結婚したいプロポーズしてくれとは言わないが、少なからず将来の話をするのは、希望が持てる。
今の私には何も無い。
約束された未来も明日働ける保証もこのまま平凡に毎日が続く確約も何もない。生きていられる保証も。
せめて、口約束でも。冗談でも。
と願う私はどうやら女性としての性を持っているらしい。
結婚なんて気にしないよ男女どっちでも好きになれるから、って思ってたけど、前みたいに純粋に明るい未来を信じることが出来ない。
前は今一緒にいられるならそれでよかった。未来なんていらなかった。というか、幸せな未来が待ってると思ってた。どうして私はこうも欲深いんだ。
今の幸せを手に入れたら未来の幸せも欲しくなる。
欲しいものは尽きないし悩みも憂鬱も尽きない。
小学生の頃とか、みんな持ってるからあれほしい!って思ったことある?私はある。そういう感じで、みんな結婚していってるからわたしも、って思う。
流行りに乗るとかじゃなくて、なんだろうな、そうすることで安心したいだけなんだと思う。
別に結婚したって未来が確約されるわけじゃない。
でも未来の約束って、なんか、ちょっと安心するよね。確約ではないけど、希望が持てるようになるかな。明るい未来が待ってるのかも、って。
結婚かあ。
風呂めんどくさい
ブログしばらく放置してたら見てくれてる人めちゃくちゃ増えてた。ありがとうございます。。
しばらく手をつけてなかったけど、ぼちぼち仕事の愚痴とか書いていけたらと思います。精神的には安定してる(はず)なのであんまり面白くないかも。
精神的には安定してると書きましたが、安定してるのかどうか正直わかりません。
無理に仕事を続けているのか、それとも本当に心身ともに仕事に慣れてきて調子がいいのか。無理してる?って聞かれたらどうだろうな。無理してるといえばしてるけど、無理してる部分って毎日風呂に入ることなんだよな。
毎日風呂に入るの、ほんまにしんどい。風呂という存在が私の中で非常に大きい。綺麗好きというか多くの人は汗かいたから、1日の汚れを落としたいから風呂に入ろう、風呂に入りたい、と思うんでしょうが、それ以前に疲れてる時に風呂に入るのしんどくないんか?と思う。
私の中では優先順位として仕事>家事>自分の時間>風呂くらいなので、風呂の優先順位がとても低いのです。
社会人として最低限毎日風呂に入ろう、というのが世間一般的かもしれないけど、私からしたらよっぽど汚いとか臭いとかじゃない限り風呂の必要性を感じないわけです。
不潔?そうかもしれない。というかそうだね。
実家にいた頃は毎日風呂に入るのが当たり前で、疲れてても風呂はいって寝なきゃって思ってましたが、一度鬱になって寝込んでからというもの、風呂に入らなくても死なないので入らなくてもそんなに大事ではないのでは、と思うようになってしまった。
もちろんベタベタするとか脂ギッシュになるとか嫌な部分は多いけど、それより風呂に入るという行動力と体力を使うんだよなあ。
鬱だから風呂に入る元気ない←めっちゃわかる〜〜〜!!!
憂鬱でも風呂くらい入れるだろと思うだろうけど、風呂って割とおおごと。調子悪い時に外に出るのと同じくらいしんどい。トイレは限界があるから行くけども風呂に限界はない。衛生面的にはあるけども。それでも、心を削ってまで風呂に入る必要なくね?って思ってしまうんよな。
風呂入るのに心のエネルギー消費する、多大なストレスを感じるって当たり前にしてる人からしたらありえねえと思うことだろうけど、なぜか風呂がめちゃくちゃしんどいのです。
仕事に行くよりしんどいし何なら風呂入れば明日仕事行けるくらいの勢い。
風呂めっちゃめんどくせえな。
そんなにめんどくさいなら入るなよと思うだろうけど、それはそれで社会に出る上では許されない(と思う)のです。
人からどう見られるか気にする人なら尚更。そして自分は清潔感のない人が生理的に受け付けないという棚に上げがすごい。
何が言いたいかって風呂まじめんどくせえ。
そろそろ風呂に入らなくても毎日清潔にいられるマシンとか開発されてほしい。
あー風呂だるいと思いながら毎日生活しています。
ただ清潔感がないのは他の人から見たらめちゃくちゃな欠点だから、できたら風呂入ろうな。風呂入れたら100点だよ。天才。やばたにえん。
と、いう感じの今日この頃です。
この先のことをどう考えるか
この先いつかまた鬱になって動けなくなるのか?
この先いつか寛解して鬱にならずに暮らしていけるのか?
どちらの考え方も真理だと思う。
将来的にどうなるのか、マイナスに考えておけば最悪までは行かないだろうし、プラスに考えておけば今頑張ることが出来る。
ただ、治るって思って行動するのと治らないって思いながら行動するのは大きな差があると思う。
不合格になることがわかってるテストの勉強を頑張るか?頑張るわけないだろ。頑張っても不合格なのがわかってるなら頑張りたくないだろ。
どうなるかわからない。
そういう考えではいけないのか。
というか、どう考えても未来のことなんて絶対ではないと思うんだ私は。
もしかしたら悪い方向に行くかもしれない、でももしかしたら良い方向に行くかもしれない。
それ以外言うことある?
今こんだけ頑張ったから絶対〇〇になる!
これから先の話に絶対なんてあるわけないだろ。
いつ何が起こるかわからない。防げるものは防げてもどうしようもないことだってある。
それなら、どうなるかわからないけどこの先良い方向に行ったらいいな〜って思いながら行動してはいけないのか。
悪いことが起きるのを想定しておくのは良いと思う、でも悪いことばかり想定して今頑張れるか?いい方向に行ってほしいから今頑張るのでは?
と、思うんだけどな。
治したいと思って行動すること、治らないと思いながら行動すること、
同じ行動でも大きな違いがあると思う。
未来の確約なんてない。
ただ少しでも自分にとっていい方向に行くように過ごすことしか出来ないんだよ。
■
しんどい。しんどすぎる。
久しぶりの記事で内容がないのはどうかと思うけど、ただただしんどい。
迷惑メールが1日200件来るのも、生理前で頭痛と目眩が酷いのも、精神状態がふよふよしてて地に足つかないのも、仕事が今週末までどうなるかわからないのも、全部しんどい。つらい。
今日はほぼ落ちることが確定している面接だったんですが、落ちるってわかってて行ってもやっぱりしんどかったです。落ちるくらいなら最初から行かなければ、って思いがすごかった。行かないと話にもならないので行きました。
帰宅して即ナムル作ってビール飲んで、今はベッドにいますが、しんどい時に中途半端に酒を飲むものではない。まじで。
しんどいを回避したくて飲む酒は少量だとしんどさを増してしまう。と私は思います。記憶も何もかも飛ぶくらい飲んだらパーっと解消出来るかもしれないけど、そんな気力も元気もないので力尽きています。
お酒飲むのもご飯食べるのも疲れてる時は大変だし、薬じゃないけどお酒は少なからずダウナーっぽい部分があると思う。
調子いい時に飲めばそれは楽しい宴となるけど、調子悪い時に飲むと精神状態的にろくなことにならないし、自傷癖がある人はそれの再来みたいなもんだと思います。
わりとまじでしんどみがすごい(´ºωº)
明日明後日くらいにはこの記事編集してまともなこと書ければと思います。
ただ、とりあえずしんどい。しんどすぎるという現状報告でした。ろくでもない記事でごめんなさいね\(^ω^)/~~
気持ちと屁と
人生において一番難しいこと、私にとっては相手に対して素直になることです。
相手の気持ちを考えるとか言うあんまり考えてない理由でそうなっている。(と思う)
だって素直になるって相手の気持ちを考えないってことじゃん?って思うんだよな。
それで相手が嫌な思いをしたら、もし私が意見を言うことで嫌われたら、とかいろいろ考えてしまう。
嫌われたくないから自分の意見を言わない、相手の意見を尊重する。
それって相手のためとか理由つけても結局自分の身とか立場を守りたいだけなんだよなあ。
思えば昔からそうだったかもしれない。
親が言う通りに勉強してスムーズに進学して親のため、親が言うからとかいう建前だったけど、そんなの自分の意見を持たなくていい、自分言い出したわけじゃないから責任を取らなくていい、っていう結局自己保身のためだった。今思えば。
元カノと付き合ってる時もそうだった。
すぐ別れるとか言う人だったから、機嫌を損ねないように、別れるとか嫌いとか言われないように頑張ってた。自分が何か気持ちを伝えたことが原因で嫌な雰囲気になるんだったら言わないほうがいい。私が言わなければそれで済む。言っても変わらないなら言うだけ無駄だしどうしようもない。言う方が惨めだ。
と、思ってきたけど、どうやらそうじゃないらしい。
お互いの心の内を話して、そのうえで折衷案を出す。
お互い素直に自分の気持ちを伝えても、嫌われるとか雰囲気が悪くなるとかじゃなくて、そのうえで話を進めることができる。
と、彼氏に教わりました。
今までも思った事ちゃんと言えって言われてたけど、やっぱりなんかそれで二人の関係が変わってしまうなら言わないほうがいい、というか言えない。
と思ってたけど、ちゃんとお互いに話をすればふたりの気持ちを考えたうえでどうするか決めることができる。ということ。
そんな発想はなかった。
私の意見で相手が何か変わるなんてことはないと思ってた。
だって誰しも自分が一番大事でしょう。自分が死ぬくらいなら他の人を殺すでしょう。(個人差があります)
相手の気持ちを尊重する、っていう言い訳で私は今まで逃げてきました。素直に自分の思っていることを伝えることから逃げていた。あとから言わなきゃよかったって思うくらいなら最初から言わないほうがいい、みたいな。
でも、世の中そんな人ばかりじゃないらしい。
きちんと自分の意見を言ってもそれを受け止めてくれる人はいる。
親であったり、付き合っている人だったり。
大事にされているんだなあ、って思いました。
素直に思ったことを伝えても、そこからどうすればいいのか話し合うことができる。
これってすごくない?
お互いの意見のぶつかり合い、投げ合いで終わるんじゃなくて、お互いの気持ちをわかったうえでどうしたらいいか考えることができる。ただ一方的な意見の押し付けじゃない。これって、すごいことだと思うんです、私は。
尊重するって言葉の意味を履き違えていたのかもしれないな〜って思います。
尊重するっていう建前の自己保身じゃなくて、お互いを尊重して何事もふたりで考えること、決める事ができる。
なんか、とても嬉しいよね。
意見のぶつかり合いで終わらない、そこからふたりでどうするか決められる関係。
付き合ってすぐだからとか、ほんとうに気持ちを打ち明けても嫌いにならないって信用できるかわからないからとか、いろいろ思うところはあると思います。でも、ぶっちゃけてしまったほうが楽だよ。とっても気分が楽。
ひとりでもやもや考えずに、意見を言ってすっきりして、ふたりで考えることができる。そんな関係がいいんだなあ、って思います。
とりあえず、相手に屁をぶちまけるところから始めたらいいと思います。
もしくはうんちの話するとか、自分の過去の失敗談を話すとか。普通ドン引きされるようなことを話せる空気にする。そうやって少しずつ慣れていく。
そんで、屁をこいても笑ってくれたんだから自分の気持ちを伝えることなんて屁でもない。屁だけに。って思えたらいいよね。
常々言われてます、目の前で屁をこけるのに思ったことは言わないよねって。
確かに屁より恥ずかしいことなんてないのかもね。ないと思う。下手したらうんこ出るし。
っていつも思えるようになったら、少し、というかかなり、気が楽になる。
私はまだ完全に素直になることは難しいけど、これから屁でもないって思っていけたらいいなって思います。
いつも彼氏には学ばせてもらってます。
いつかめっちゃ臭い屁をぶちかましてやるからな。これからもどうぞよろしく。
ことばえらび
「上がりすぎているので下げる薬を出しましょう」
他の言葉なしでこれ言われて躁状態を落ち着ける薬出されたら「は?今のわたしがあかんのか?あ?」ってならない?ならないか。
昨日ウルトラ躁状態(らしい)で病院に行ったらこうなりました。
私の考えが歪んでるし躁状態だしイライラもしてて、なんでこの人は私をこんなに否定してくるんだ、私は頑張ってるだけなのに、それがちょっと実ってきただけなのに、こんなこと言われなきゃいけないの?ってなりました。
そのあと彼氏が先生の言葉の意味をきちんと説明してくれて、やっとスって意味を理解できて、自分が上がりすぎていることがわかって、今日からそれを意識してる。けど、私の考え歪みすぎでは?でもなんかやっぱり、ってなって思う。
私は頑張ってる、調子がいい悪いとかじゃなくて努力でこうなった、頑張ってこういう成果が出た、って思い込んでて、いつまでもこの調子が続くと思っていて、今日の朝にはそうじゃなくて。
先生の言葉は、
「気分が上がりすぎているからその成果が出せる」つまり「努力は関係ない」
って言われてるみたい、って思ってしまいました。
もちろん後で考えたら私の捉え方が歪んでるし、先生は現実と病状を考えて薬を調整してくれてるんだって理解した。
「ふつう」の人なら歪みなくスって理解できるのかな。
わたしはそんなことなくて、は?私の努力だろ調子の問題じゃないわ、上がってなくてもこんなんできるわってイライラしたけど、そうじゃないんだよなあ。
気分が上がってることを理解しない、つまり自分の状態を理解出来ない、しようとしない、病気を認めたがらないってこういうことよな。
自分では双極性障害、って思ってるし先生の診断もたぶんそうだけど、どこかで否定してるのかな。昨日の先生の話は理解したけど、躁状態だからできるとか鬱だからできないとか、それはあんまりしっくりきてない。
薬飲みながら何を否定するんだって話だけど。でもなんか、私は双極性障害だって開き直った気でいたけど、そうじゃないのかも。理解しようとしてないかもな。
「落とす、下げる」
じゃなく、
「ゆっくりにする」
って、彼氏が言ってくれて、あぁそういうことか。って初めて思った。
確かに調子はいい。上がってると思う。
でもそれを下げるって否定するんじゃなくて、今のまま少しだけペースを下げればいい。そう言われるとすごく心が楽になりました。
今を否定してるわけじゃなくて、今の速度じゃ速すぎるから、もう少しゆっくりでも大丈夫。
ゆっくりでも大丈夫なのかあ。
確かに止まらなかったら走ってても歩いてても変わらないよね。それだったら一気に疲れてバテるより、少しずつ慣れていって苦じゃないほうがいいよね。
「気分を下げる」
「ゆっくりでも大丈夫」
たぶん、先生はそういう意味で言ってたんだろうけど、同じ意味とは思えないくらい捉え方が変わる。大丈夫って言葉は大きいな。無責任に言われるととても腹が立つ言葉だけど、ちゃんと考慮して言ってくれるとすごく心に残る。
私はまだどこかで認めてほしいって承認欲求があるのかな。否定されるのは嫌だ。だから、今のままでもいいんだよ、間違ってないよ。大丈夫だよ、少し気を抜こう、って、すごく心が穏やかになった。
言葉選びって、人の気持ちを考えるって、自分を理解するって、難しいなあ。
あらためて、いつもありがとう。